豊丘時竹のエッセイ

エッセイにまとめたものを載せます

目の人耳の人

 私は四十年ほど畜産学の研究者として過ごしてきた。その間の初期の六年は実験動物としてマウスを使っていた。

 動物の多くは長い顔をしている。その先端に端がある。マウスは長さ三十五センチ、幅二十センチほどのゲージで飼育していた。床じきのワラなどを交換する時や、マウスに何か何かの処置をするために捕まえたりする時には、どうしてもケージの中に手を入れるが、マウスは危害を加えるものがきたと思うのだろう、顔を指に向け目を閉じ、と思っているが、これはもう一度確かめてみないと分からない。そして鼻で指の匂い嗅いでいるように思われる動作をする。危険かどうかまず匂いで判断するようだ。そして時にがぶっとくる。

 また馬は草を食む時は目を閉じるという。危険な草は鼻で判断しているのだと思う。動物はこうして鼻が大きな役割を担っているが、人も赤ちゃんの時は鼻がかなり重要なようだ。ここまでが前置きで、人にも「鼻の人」の時期があるだろうと言いたかったのである。

 若い時代は社会とのつながりが大きいから、外に出る機会が多く、どうしても目の力に頼る。しかし七十代にもなってもう出歩く機会が少なくなってみると、テレビは見るにしても、夫婦の間のコミュニケーションが最も大切な仕事となる。コミュニケーションなどとカタカナ文字で書いてしまったが、意思の疎通、心の通い合いという意味で用いている。それには耳、というか口というか、要するに言葉をやり取りするのが最も大事なことになりようである。目からの情報ももちろん大いに必要ではあるが、耳の方がそれよりもっと大事である。私はそう考えている。

 目と耳のどちらかを選ばねばならないとしたら、私は若い時代は目、年とってからは

耳を選ぶだろうと思う。それを「目の人耳の人」と言ってみたのである。

 父は六十歳ごろからだったと思うが、網膜剥離症で次第に目が見えにくくなっていった。七十歳過ぎたころには、網膜はその中心部がほとんど剥離していて、そうでないわずかに残った辺縁部を使ってテレビ、徳に相撲を見ていたが、普段はもっぱらラジオを聴いていた。障碍者手帳ももらい、ほぼ耳の人として生活していた。

 同じころ母は、市役所が主催するバス旅行によく出かけていた。市からの補助があったのだろう。 金額などは聞いたことはないが、比較的安い料金で旅行に行っていたものと思う。ご近所の、ただそれはどのあたりまでのご近所だかは分からないが、そのご近所の方々と出かけていた。目の人だったbのである。

 旅行の時は料理などを用意し、目の見えない父にも分かるようにして、三食食べられるようにして出かけていった。まれうで見てきたようだがまあそんなところである。

 ある旅行の時、これが最後の旅行になってしまったが、運の悪いことに父がガンだとかかりつけの医師に言われ、入院の用意をすることになった。父は私たちにその準備をするようにと電話してきた。時刻は何時ごろだった覚えてないが、午後だったろう。

 私はまだ勤めを持った現役で、またガンだと聞いてすぐに悪くなるものではない、あわてる必要はないと判断し、その日のうちに入院させればいいのだろうと考え、仕事を優先した。これがまずかった。夕方四時ごろ、父から催促の電話があった。「どうするんだ」と聞いてきた。何時になったらくるのだと催促したのである。それで取るものもとりあえず父の元へ向かい、その日に入院させた。

 会ってからは、父は「母さんには連絡するな、母さんには連絡するな」とそればかり口にし、外には何も言わなかった。それで私は母に連絡を取らなかった。後日談だが女房から「お母さんを呼び返さなかったいけなかったのよ。呼び返していれば旅行を止めることはなかったのよ」と小言を言われたが、いけなかった訳は後で書く。小さい時からの習慣で父に逆らえなかったのである。二人で二日間父の家に泊まり、帰宅した母に後は任せて帰った。結果はガンではなかった。

 私は母に父を何とかしてよ、と数日たってから言ったが、現役の息子の都合も考えて少し遅くなっても辛抱してくれるように伝えたつもりだった。それが母に旅行を止めさせる結果になってしまった。自分が留守にすると息子に思わぬ迷惑をかけると考えたのだろう。目の人を止めてしまった。呼び返さなかったのもそれに拍車をかけたようだ。「呼び返していたら、何かあっても呼び返してくれるから安心して旅行にいける、とお母さんは考えたはずなのよ」と女房に言われたのであった。

 二年後、母は脳溢血で入院し一度も意識が戻らぬまま三月ほどで死んだ。目の人を止めさせたことが誘因になったのだろう、私にかなりの責任があると後悔している。