豊丘時竹のエッセイ

エッセイにまとめたものを載せます

授業とその試験2

 大学の教師をやめて十年以上過ぎた。もうその仕事、特に私が行った授業について私が評価しても、誰かを傷つけるとは考えなくてもいいだろうと考えるようになった。教養課程の生物学の授業である。 

 教師のあいだに授業を批判されて、それに対して反論しなかったことが一つある。授業に対する学生へのアンケートの評価が、「難し過ぎる」というのである。しかも難しすぎると評価されていながら、受講した学生たちの成績がよすぎるというのである。

 成績がよすぎるのは当たり前である。良くない成績をつけて、それが基で就職に失敗したなどと言われないようにするためである。私のつけた成績が就職失敗の原因にさせないためである。そんなことは大学教師ならだれでも考えることだろう。だから私は易しい教科書を使い、試験には授業で取ったノート、教科書、参考書などなにを持ち込んでもいいことにし、試験問題は教科書のどこかに書かれている内容で作った。つまり教科書を一通り読んでいれば満点が取れる問題を作った。しかし授業は私が精一杯背伸びをした中身にした。私は生物学を教養科目で持っていて、それは私が精一杯背伸びをした生物学であった。精一杯なんだから学生が難しいと感じるのは当然かも知れない。

 生物学の基本原理は二つである。進化論と遺伝学である。授業を通してそのことを理解させようとした。そしてそれはかなり成功したと思う。だが原理原則の勉強は難しいと学生には感じられたのだろう。それで学生の授業評価は難し過ぎるというものだったらしい。評価の中身を見せてもらってないから、推定して言っている。しかもそのことを調査した教官が直に問い合わせるのではなく、事務官であった。事務官に問い合わせをさせたのである。 

  ということは、反論は許さないという意味だろう。事務官に反論しても講義の評価はできまい。教官本人が問い合わせしてくれば、それなりに縷々説明して教育について何らかのいい結論が出たかもしれない。しつこいが、事務官に問い合わせをさせるというのは、反論は認めないということだろう。試験問題などいくらでも易しくも難しくも作れる。そんなことも気がつかない教官の代理の人に問い合わせをさせる事そのことが、すでにして、教育そのものをその教官は舐めていたのだと、私は結論した。それで事務官に問い合わせされてからは後は、調査した教官の意図を忖度して、試験問題を、点数が適当に散らばり、授業の程度と合わせるようにした。いま考えると横着だったかもしれない。

 事務官に反論しなかったという私の横着が、ひょっとして受業の進歩に役立った結果をもたらしたかもしれない機会を逸したかもしれない。私の講義の仕方はそれなりにあったと考えるが、今になってみれば残念なことである。

(続く。)(初出9/19/R2(土))

心境の激変

 大きな心境の変化があった。教授を誕生させるための努力を私はしなかった。外から若い教授がやってきてしまった。もう少しかかわりあってもよかった人もいた。ノートにはもっとはっきり書いているが、ここではこれ以上は書けない。八時ごろ歯を磨いていて洗面所でふとそんなことを考えた。これは私が仏に少し近づいたは証しであろう。長老様が召される日も近いかもしれぬ。(初出9/26/R2(土)記)

 

 啓介は妙な癖があった。ノートにはここからけっこう露骨なことが書かれているが、ここにはこれ以上は書かない。(初出10/3/R2(土))

授業とその試験

大学の教師をやめて十年以上過ぎた。もうその仕事について評価してもいいだろうと考えるようになった。

 教師のあいだに批判されて、それに対して反論しなかったことが一つある。授業に対する学生の評価が、難し過ぎるというのに、学生の成績がよすぎるというのである。成績がよすぎるのは当たり前である。良くない成績をつけて、それが基で就職に失敗させないためである。私のつけた成績が就職失敗の原因にさせないためである。そんなことはだれでも考えることだろう。だから私は易しい教科書を使い教科書のどこかに書かれている内容で試験問題を作った。教科書を一通り読んでいれば満点を取れる問題を作った。しかし授業は私の精一杯の背伸びをした中味にした。私は生物学を教養科目で持っていて、それは私の背伸びした生物学であった。

 生物学の基本原理は二つである。進化論と遺伝学である。教科書を通してそのことを理解させようとした。そしてそれはかなり成功したと思う。だが原理原則の勉強は難しいと学生には感じられたようだ。それで学生の授業評価は難し過ぎるとゆうものだったらしい。評価の中味を見せてもらってないから、推定している。とりあえずここまでとしておく。

「(20200914)に、「豊丘時竹の続続『平素の戯言』」に載せた記事を、「豊丘時竹のエッセイ」にとりあえずコピペした。(20200919) 」

「この記事を元に私の授業の評価を私がしてみたいと思う。なぜなら私の授業は学生の評価が『難しい』というものであったが、「成績」はあまりに「よすぎるから何とか工夫せよ」と担当の委員会からクレームがついたのである。そのことに対して、改めて反論をしたいのだが、上の原文に追加添削を繰り返して完成させたい。それを点線以下に書いていく。(20200919,1540記)」

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大学の教師をやめて十年以上過ぎた。もうその仕事、特に私が行った授業について私が評価しても、誰かを傷つけるとは考えなくてもいいだろうと考えるようになった。

 

 教師のあいだに授業を批判されて、それに対して反論しなかったことが一つある。授業に対する学生の評価が、「難し過ぎる」というのである。難しすぎると評価されていながら、受講した学生たちの成績がよすぎるというのである。

 成績がよすぎるのは当たり前である。良くない成績をつけて、それが基で就職に失敗したなどと言われないようにするためである。私のつけた成績が就職失敗の原因にさせないためである。そんなことは大学教師ならだれでも考えることだろう。だから私は易しい教科書を使い教科書のどこかに書かれている内容で試験問題を作った。教科書を一通り読んでいれば満点が取れる問題を作った。しかし授業は私が精一杯背伸びをした中身にした。私は生物学を教養科目で持っていて、それは私が精いっぱい背伸びをした生物学であった。

 生物学の基本原理は二つである。進化論と遺伝学である。授業を通してそのことを理解させようとした。そしてそれはかなり成功したと思う。だが原理原則の勉強は難しいと学生には感じられたようだ。それで学生の授業評価は難し過ぎるというものだったらしい。評価の中身を見せてもらってないから、推定して言っている。

 

 

 

 

ということは、反論は許さないという意味だろう。事務官に反論しても講義の評価はできまい。本人が問い合わせてくれば、それなりに縷々説明して教育について何らかのいい結論が出たかもしれない。事務官に問い合わせをさせるというのは、反論は認めないということだろう。試験問題などいくらでも易しくも難しくも作れる。事務官に問い合わせされたからは、試験を答えにくくして適当に点数が散らばるようにした。

 この事務官に反論しなかったという私の横着が受業の進歩に

覚えてもらいたいこと考えてもらいたいこと

大学教師をやめて十年以上経った。そろそろ教師時代の出来事を書いても、誰かに迷惑がかかる心配もあるまい。それで書いてみる。その第一が講義の実施方法についてである。

 

定年退官する前の数年間は、教養科目の生物学を担当していた。その試験結果とさる委員会が実施したアンケート調査の結果との間にに乖離があると苦情を述べられたことについて述べ、当時私が考えていて今もそう考えている考え方について述べる。

 

どういうことかというと、受講した学生のアンケート結果では、私の講義は難しいという評価だったという。一方、私がつけた成績は、かなり多くの学生が「優」であった。乖離が大きすぎないか、というのである。ただしそう直に担当の先生から聞かれたわけではない。事務官が代わって伝えてきたのである。事務官は伝えることに抵抗した。しかし結果だけを伝えるように担当の事務官に言ったそうで、事務官は明らかに伝えるのを躊躇した。そう受け取れる、私への伝え方だった。

 

私は、伝えられて、反論する気も起きなかったので、その後は適当に正規分布になるように試験を、点数の自由に加減できる論文形式の試験とし、成績が散らばるようにした。

 

私が、講義をしていたのは大学である。大学生を相手にしていたのである。全員が「優」であってもちっとも困らない。誰が困るというのだろう。だから試験は教科書持ち込みで、選択式の採点しやすい問題を作っていた。それでも多少は散らばるのである。選択問題にもしてあったから、得意な問題を選ぶこともできる。選択肢には難易も付けてあって、頭のいい子は易しい問題を選ぶのも容易なようにしてあった。それでも優良可不可がつけられた。苦情を言われる内容じゃないのであるが、担当の教師はそんなことはまるで斟酌しなかったのである。弁明する気もなかったので、言われるままに、その教師の意図しただろう気持ちに忖度して、試験問題を変えた。事務官に伝えるように言うのではなく、私の意図を問い合わせるだけの余裕はなかったのだろうか。愚かな教師である、と今でも思っている。あるいは、私にお灸でもすえるつもりだったのか。次から試験を変えたから、さぞやいい気分になって満足したことだろう。

 

生物学の原則は二つである。進化論と遺伝学である。講義は、この二つが原理である、と伝えるように行った。とは言え、教え方の巧拙がある。元々原理原則の講義は分かりにくい。だから講義が難しいというのは当たり前なのである。試験は、ある程度散らばって学生に迷惑をかけないように、また「優」たっぷりになるように易しくしたのである。

 

 

 

 

目の人耳の人

 私は四十年ほど畜産学の研究者として過ごしてきた。その間の初期の六年は実験動物としてマウスを使っていた。

 動物の多くは長い顔をしている。その先端に端がある。マウスは長さ三十五センチ、幅二十センチほどのゲージで飼育していた。床じきのワラなどを交換する時や、マウスに何か何かの処置をするために捕まえたりする時には、どうしてもケージの中に手を入れるが、マウスは危害を加えるものがきたと思うのだろう、顔を指に向け目を閉じ、と思っているが、これはもう一度確かめてみないと分からない。そして鼻で指の匂い嗅いでいるように思われる動作をする。危険かどうかまず匂いで判断するようだ。そして時にがぶっとくる。

 また馬は草を食む時は目を閉じるという。危険な草は鼻で判断しているのだと思う。動物はこうして鼻が大きな役割を担っているが、人も赤ちゃんの時は鼻がかなり重要なようだ。ここまでが前置きで、人にも「鼻の人」の時期があるだろうと言いたかったのである。

 若い時代は社会とのつながりが大きいから、外に出る機会が多く、どうしても目の力に頼る。しかし七十代にもなってもう出歩く機会が少なくなってみると、テレビは見るにしても、夫婦の間のコミュニケーションが最も大切な仕事となる。コミュニケーションなどとカタカナ文字で書いてしまったが、意思の疎通、心の通い合いという意味で用いている。それには耳、というか口というか、要するに言葉をやり取りするのが最も大事なことになりようである。目からの情報ももちろん大いに必要ではあるが、耳の方がそれよりもっと大事である。私はそう考えている。

 目と耳のどちらかを選ばねばならないとしたら、私は若い時代は目、年とってからは

耳を選ぶだろうと思う。それを「目の人耳の人」と言ってみたのである。

 父は六十歳ごろからだったと思うが、網膜剥離症で次第に目が見えにくくなっていった。七十歳過ぎたころには、網膜はその中心部がほとんど剥離していて、そうでないわずかに残った辺縁部を使ってテレビ、徳に相撲を見ていたが、普段はもっぱらラジオを聴いていた。障碍者手帳ももらい、ほぼ耳の人として生活していた。

 同じころ母は、市役所が主催するバス旅行によく出かけていた。市からの補助があったのだろう。 金額などは聞いたことはないが、比較的安い料金で旅行に行っていたものと思う。ご近所の、ただそれはどのあたりまでのご近所だかは分からないが、そのご近所の方々と出かけていた。目の人だったbのである。

 旅行の時は料理などを用意し、目の見えない父にも分かるようにして、三食食べられるようにして出かけていった。まれうで見てきたようだがまあそんなところである。

 ある旅行の時、これが最後の旅行になってしまったが、運の悪いことに父がガンだとかかりつけの医師に言われ、入院の用意をすることになった。父は私たちにその準備をするようにと電話してきた。時刻は何時ごろだった覚えてないが、午後だったろう。

 私はまだ勤めを持った現役で、またガンだと聞いてすぐに悪くなるものではない、あわてる必要はないと判断し、その日のうちに入院させればいいのだろうと考え、仕事を優先した。これがまずかった。夕方四時ごろ、父から催促の電話があった。「どうするんだ」と聞いてきた。何時になったらくるのだと催促したのである。それで取るものもとりあえず父の元へ向かい、その日に入院させた。

 会ってからは、父は「母さんには連絡するな、母さんには連絡するな」とそればかり口にし、外には何も言わなかった。それで私は母に連絡を取らなかった。後日談だが女房から「お母さんを呼び返さなかったいけなかったのよ。呼び返していれば旅行を止めることはなかったのよ」と小言を言われたが、いけなかった訳は後で書く。小さい時からの習慣で父に逆らえなかったのである。二人で二日間父の家に泊まり、帰宅した母に後は任せて帰った。結果はガンではなかった。

 私は母に父を何とかしてよ、と数日たってから言ったが、現役の息子の都合も考えて少し遅くなっても辛抱してくれるように伝えたつもりだった。それが母に旅行を止めさせる結果になってしまった。自分が留守にすると息子に思わぬ迷惑をかけると考えたのだろう。目の人を止めてしまった。呼び返さなかったのもそれに拍車をかけたようだ。「呼び返していたら、何かあっても呼び返してくれるから安心して旅行にいける、とお母さんは考えたはずなのよ」と女房に言われたのであった。

 二年後、母は脳溢血で入院し一度も意識が戻らぬまま三月ほどで死んだ。目の人を止めさせたことが誘因になったのだろう、私にかなりの責任があると後悔している。

 

 

 

貴乃花・日馬富士・稀勢の里

 貴乃花日馬富士稀勢の里という三人の元力士の名前をとって題としたが、その目的は、大相撲に対して圧倒的な勢力を誇示しているモンゴル勢と貴乃花との対立を軸に、この三人に起こった出来事を述べつつ、大相撲について考えてみようと言うのである。もちろん話の中には元力士の貴ノ岩も含まれるが、中心は表題の三人である。

 直接の発端は貴ノ岩に対する日馬富士の暴力事件でである。この事件は、二〇一七年九州場所直前に起こった。ネットにはいくつもかなり詳しく報告されているが、そのどれとは決めずに自分なりにまとめておく。

 鳥取巡業を控えた二〇一七年十月二十五日夜に、地元の高校関係者と白鵬日馬富士鶴竜の三横綱、同校のOBの照ノ富士貴ノ岩石浦の三人を含む十三人の食事会が開かれた。さらに二次会が午後十一時過ぎから翌二十六日午前二時ごろまであった。二次会の席で、貴ノ岩日馬富士から、素手で顔面をたたかれたりカラオケのリモコンで頭部を数回殴打されたりした。

 そこにいたるには、白鵬に説教されている時に貴ノ岩スマホをいじっていたなどの理由もあったようだが、殴って頭部にけがを負わせ、最終的には鳥取警察署に貴乃花とともに貴ノ岩が被害届けを出したことで、日馬富士が五十万円罰金に処され、自主的に引退することになった。この件で貴乃花相撲協会との関係が悪くなり、後日貴ノ岩が付き人へ暴力をふるったという理由で、協会を去り、日馬富士貴ノ岩に対する暴行事件は一応の決着を見た形となった。

 貴ノ岩日馬富士に対し損害賠償を求めていたが、それがモンゴルで貴ノ岩の親族へのバッシングを呼び、結局取り下げた。

 貴乃花とモンゴル一派の対立があからさまになった出来事である

 が、しかしそもそもの始まりは、貴乃花の外国人力士に対する思い込みが根底にありそうである。貴乃花は大相撲は日本人横綱が取り仕切る必要があると考えていたようだ。

 貴乃花が現役のころはハワイ勢が大相撲に君臨していた。貴乃花が引退間際のころ、右ひざに大怪我を負い、その状態でたしか優勝決定戦だったと思うが、横綱武蔵丸を倒して二十二回目の優勝を果たした。鬼の形相だったと報道された。ハワイ勢をことのほか強く意識していたように思える。引退してからは、それがモンゴル勢に向けられた。

 日本人対モンゴル勢の対立は稀勢の里横綱になったことによって顕在化したらしい。これは私の考えではない。小林信也氏<作家、スポーツライター>の言葉がネットに残っている。「稀勢の里が火をつけた『日本VSモンゴル』仁義なき抗争」という記事の中で、「稀勢の里を中心とする日本勢と白鵬日馬富士らのモンゴル勢の『洒落にならない対立』の様相が深刻化している」という。それが端的に現れたのが、二〇一七年三月の春場所十三日目の、厳しい相撲で稀勢の里を負傷させた日馬富士との対戦だった。小林氏は先の文言の少し後に以下のように書いている。

「意図的とは言わないが、ただならぬ厳しさがあったのは、ただの相撲の一戦ではなく、それ以上に腹に抱えるものがあったからだと指摘する関係者が」少なくない」

 私は逆である。むしろ意図して壊してやろうという意識で突っ掛かっていった、と感じた。それがものの見事に成功した瞬間だった。稀勢の里は、その場所は奇跡的に優勝したが、それからは復活せずに引退した。白鵬、ひいてはモンゴルの天下は二〇一九年春場所でも続いている。稀勢の里を潰し、貴乃花を追い出し、自身は引退したが、結果としてモンゴルの天下を続けさせるのに成功した。日馬富士はさぞかし満足しているのではなかろうか、とまあこれは悪しきナショナリズムに私が毒されているからの言葉である。

 貴乃花は、このモンゴルの天下を覆そうとして戦ったと言えば許されるというものではなく、ちょっと行き過ぎた行動もあった。巡業中に白鵬だけがまだ戻ってきてないのに、バスを出発させたりなどの行動があったりしたという。ただこれはネットでちょこっと見たときの記憶である。再度確かめてはいない。

 日本人対モンゴル勢の対立の中で、貴ノ岩の事件があり、大相撲協会当局から煙たがられていた貴乃花は、事件について協会に報告しなかったのを理由に体よく追い払われてしまった。協会はうれしかったに違いない。

 私は今後は貴乃花は何としても参議院議員になってもらいたいと考えている。貴乃花の日本人y中心は度が過ぎたが、白鵬の千秋楽の万歳三唱や三本締めあ、知らないとは言え思い上がりであろう。モンゴル互助会などの言葉さえささやかれる大相撲に、多少の外からの圧力はあってもいいと考える。

 

この夏の参院選貴乃花  20190623 0815記

 

 

 

年賀状さまざま

 お年玉くじのついた年賀はがきがはじまったのは、昭和二十四年だそうである。この年、年賀状の取扱量は大きく伸び、そしてその後も増加を続け、平成九年に三十七億通のピークに達した。その後は減少に転じ平成二十八年には二十二億通にまで減少したという。これがインターネットを検索して拾った年賀状全体の最近の推移である。

https://kostrivia.com/818.html

 それでは個人個人では年賀状はどのように扱われてきたのか。それを私がいただいた年賀状から考察してみようと考えた。その最初の一つは、正月明けに会うのが分かっている人へは、年賀状は本来は差し上げないものなのではないか、というものである。

 このことを教えてくださったのは、小学四、五、六年生の担任だった先生である。先生は、ご自分への年賀状は在学中は出さないようにと言われ、もらっても返事は出さないが、しかし君たちが卒業したら出すよと言われた。言われたそのころは何も考えずに、そうしたものなんだなと思い、小学生の間は私は出さなかった。卒業してからは毎年お出しして、お返事をいただいた。今になってみれば先生の言われたことはもっともなことである。正月休みが明ければ必ず会えるのに、年賀状で挨拶する必要はない。

 しかし一般にはどうも必ずしもそうではないようだ。つまり一つは、年明けに会うからこそ年賀状を出しておくのである。少しでも印象づけておきたいのではなかろうか。以後会わないなら印象づける必要はないから、年賀状も必要ないのである。どうおもそれが常識に近いもののようだ。逆に別れてしまえば年賀状は必要ないものになる。

 二つ目は、簡素にかくものらしい。場合によっては出来合いの文言のついた年賀状でもいいらしい。いただく多くは簡素に一年のご無沙汰をお詫びするというものである。それでいいのだと思う。年賀状が届いたのが、元気で暮らしている証拠だからである。

 私は逆で、年に一回のおたよりの人も多いので、旅行などしたときは女房ともどもの内容で送ったりして、かなり細かくお知らせしてきた。最近では病気の状況などを知らせたりしてきた。そうするものだとこれまで考えてきた。そのおかげで、「帯状疱疹にかかった」と、お知らせした翌年、「二十年前に自分も帯状疱疹になって、いまだに患部が痛む」と、教えてくださった方がおられる。それで私も生きている間に痛みが消えることはないな、と覚悟を決めたものである。

 十代前半から六十年以上にわたり、年賀状を差し上げ、またいただいてきた。これからもそれなりに詳しく書いて出すつもりでいる。だから私の出したものは、私の履歴にもなるのである。それらはある年代以降のものはすぐに出てくるが、古いものはたぶん処分してしまっていよう。いただいた年賀状の方は押し入れにしまい込んだままだから、どこから出てくるかは見当がつかない。

 三つめは、偉い人、という言い方が正しい言い方かどうかは分からないが、師匠筋の人や有名人から返事がないのは、それが当たり前だと言ううことである。こちらから出すだけでいいのだと私は考えている。しかしそれでもお返事をくださる人はくださるのである。

 四つ目は、年賀はがきを連絡に使う方がおられるのを知ったことである。用事のある時期が年賀の時期と重なると年賀状を使うようなのである。もちろんその方からは用事がなければ、年賀状はともかくお返事も届かない。

 そんななか、今年は大きな節目になったような気がする。一つは、連れ合いの方ないしはご子孫の方から喪中のお葉書が多数届いた。私は、亡くなられた方々とは知り合いであるが、連れ合いの方やご子孫の方とは面識がないから、そこでご連絡は途絶えてしまう。やむを得ないが、さびしいものである。

 もう一つは終活年賀状である。今回の年賀状を最後に次年度からは失礼するという年賀状である。「終活」という活動がじょじょに年配者にうけいれられつつあるが、その年賀状版である。もちろん年配者からのものが多いが、私より若い方のものもあった。

 これに関しては、遠方に住まわれていてお会いする機会がほとんどない方からのものは、受け入れているが、終活年賀状をいただいた方とお会いしたりしたときは、どんなお話をしていいものか、いっしゅん戸惑ってしまった。その方が何かの拍子にべつの方と年賀状のお話をしているのをそばsで聞いていたりするのは、平気な顔はしていても、どこか落ち着かなかった。私は終活年賀状は受け入れるが、今は私の方からそれを出す気はない。私よりずっと年配の方から、年賀状はおろか、しばしばおたよりもいただいたりするのである。私に、「まだまだがんばれるぞ」と応援してくださっているのである。

(NHK学園 エッセイ教室 2/5/H31(火)提出、2/16/H31(土)添削後返却さる。本文は添削されたものをアップした。5/11/R1(土)アップ完)

 

   リフレーン1

 防衛キャリア30年太田述正

 最大の安全保障はアメリカからの独立                                                                            https://www.ohtan.net/report/pdf/ohtan-blogtitle.pdf

 

 

 リフレーン2

 日本と中国をいつまでも仲違いさせておくことは全欧米諸国の、ここ百年の基本戦略である(藤原正彦管見妄語」162、週刊新潮31号、平成24年から)