豊丘時竹のエッセイ

エッセイにまとめたものを載せます

授業とその試験

大学の教師をやめて十年以上過ぎた。もうその仕事について評価してもいいだろうと考えるようになった。

 教師のあいだに批判されて、それに対して反論しなかったことが一つある。授業に対する学生の評価が、難し過ぎるというのに、学生の成績がよすぎるというのである。成績がよすぎるのは当たり前である。良くない成績をつけて、それが基で就職に失敗させないためである。私のつけた成績が就職失敗の原因にさせないためである。そんなことはだれでも考えることだろう。だから私は易しい教科書を使い教科書のどこかに書かれている内容で試験問題を作った。教科書を一通り読んでいれば満点を取れる問題を作った。しかし授業は私の精一杯の背伸びをした中味にした。私は生物学を教養科目で持っていて、それは私の背伸びした生物学であった。

 生物学の基本原理は二つである。進化論と遺伝学である。教科書を通してそのことを理解させようとした。そしてそれはかなり成功したと思う。だが原理原則の勉強は難しいと学生には感じられたようだ。それで学生の授業評価は難し過ぎるとゆうものだったらしい。評価の中味を見せてもらってないから、推定している。とりあえずここまでとしておく。

「(20200914)に、「豊丘時竹の続続『平素の戯言』」に載せた記事を、「豊丘時竹のエッセイ」にとりあえずコピペした。(20200919) 」

「この記事を元に私の授業の評価を私がしてみたいと思う。なぜなら私の授業は学生の評価が『難しい』というものであったが、「成績」はあまりに「よすぎるから何とか工夫せよ」と担当の委員会からクレームがついたのである。そのことに対して、改めて反論をしたいのだが、上の原文に追加添削を繰り返して完成させたい。それを点線以下に書いていく。(20200919,1540記)」

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大学の教師をやめて十年以上過ぎた。もうその仕事、特に私が行った授業について私が評価しても、誰かを傷つけるとは考えなくてもいいだろうと考えるようになった。

 

 教師のあいだに授業を批判されて、それに対して反論しなかったことが一つある。授業に対する学生の評価が、「難し過ぎる」というのである。難しすぎると評価されていながら、受講した学生たちの成績がよすぎるというのである。

 成績がよすぎるのは当たり前である。良くない成績をつけて、それが基で就職に失敗したなどと言われないようにするためである。私のつけた成績が就職失敗の原因にさせないためである。そんなことは大学教師ならだれでも考えることだろう。だから私は易しい教科書を使い教科書のどこかに書かれている内容で試験問題を作った。教科書を一通り読んでいれば満点が取れる問題を作った。しかし授業は私が精一杯背伸びをした中身にした。私は生物学を教養科目で持っていて、それは私が精いっぱい背伸びをした生物学であった。

 生物学の基本原理は二つである。進化論と遺伝学である。授業を通してそのことを理解させようとした。そしてそれはかなり成功したと思う。だが原理原則の勉強は難しいと学生には感じられたようだ。それで学生の授業評価は難し過ぎるというものだったらしい。評価の中身を見せてもらってないから、推定して言っている。

 

 

 

 

ということは、反論は許さないという意味だろう。事務官に反論しても講義の評価はできまい。本人が問い合わせてくれば、それなりに縷々説明して教育について何らかのいい結論が出たかもしれない。事務官に問い合わせをさせるというのは、反論は認めないということだろう。試験問題などいくらでも易しくも難しくも作れる。事務官に問い合わせされたからは、試験を答えにくくして適当に点数が散らばるようにした。

 この事務官に反論しなかったという私の横着が受業の進歩に