豊丘時竹のエッセイ

エッセイにまとめたものを載せます

覚えてもらいたいこと考えてもらいたいこと

大学教師をやめて十年以上経った。そろそろ教師時代の出来事を書いても、誰かに迷惑がかかる心配もあるまい。それで書いてみる。その第一が講義の実施方法についてである。

 

定年退官する前の数年間は、教養科目の生物学を担当していた。その試験結果とさる委員会が実施したアンケート調査の結果との間にに乖離があると苦情を述べられたことについて述べ、当時私が考えていて今もそう考えている考え方について述べる。

 

どういうことかというと、受講した学生のアンケート結果では、私の講義は難しいという評価だったという。一方、私がつけた成績は、かなり多くの学生が「優」であった。乖離が大きすぎないか、というのである。ただしそう直に担当の先生から聞かれたわけではない。事務官が代わって伝えてきたのである。事務官は伝えることに抵抗した。しかし結果だけを伝えるように担当の事務官に言ったそうで、事務官は明らかに伝えるのを躊躇した。そう受け取れる、私への伝え方だった。

 

私は、伝えられて、反論する気も起きなかったので、その後は適当に正規分布になるように試験を、点数の自由に加減できる論文形式の試験とし、成績が散らばるようにした。

 

私が、講義をしていたのは大学である。大学生を相手にしていたのである。全員が「優」であってもちっとも困らない。誰が困るというのだろう。だから試験は教科書持ち込みで、選択式の採点しやすい問題を作っていた。それでも多少は散らばるのである。選択問題にもしてあったから、得意な問題を選ぶこともできる。選択肢には難易も付けてあって、頭のいい子は易しい問題を選ぶのも容易なようにしてあった。それでも優良可不可がつけられた。苦情を言われる内容じゃないのであるが、担当の教師はそんなことはまるで斟酌しなかったのである。弁明する気もなかったので、言われるままに、その教師の意図しただろう気持ちに忖度して、試験問題を変えた。事務官に伝えるように言うのではなく、私の意図を問い合わせるだけの余裕はなかったのだろうか。愚かな教師である、と今でも思っている。あるいは、私にお灸でもすえるつもりだったのか。次から試験を変えたから、さぞやいい気分になって満足したことだろう。

 

生物学の原則は二つである。進化論と遺伝学である。講義は、この二つが原理である、と伝えるように行った。とは言え、教え方の巧拙がある。元々原理原則の講義は分かりにくい。だから講義が難しいというのは当たり前なのである。試験は、ある程度散らばって学生に迷惑をかけないように、また「優」たっぷりになるように易しくしたのである。